本格的に死を意識し始めるのは何歳くらいからだろうか。
無論子供の頃から、死に対する漠然とした恐怖や不安を人は皆感じていると思うそれが加齢とともにより現実のものとして、日々の生活にも影を落としていく。
筆者の場合は、具体的には50歳後半くらいからだろうと思う。自分の体力の衰え、腰や膝、眼等の体の故障・不調、白髪や皺等外見の劣化、など否応なく現実を突きつけられるとともに、知人や友人、同級生の死などの報がちらほら入ってくる年齢でもある。10年近く前、まさに50歳台中頃だったろうか、久しぶりの高校の同窓会で、会場に足を踏み入れた時に、一瞬部屋を間違えたと思った。なぜならそこには見慣れない初老の集団がいたからだ(自分もその一員との自覚もなく)。ただ、それが否応ない現実だ。
また、最近筆者は近親者の死に接した。ある程度覚悟していたものの、単純な悲しみの感情とともに、改めて「人生とは、存在とはそもそも何か」「どんなに一生懸命生きても所詮死ぬのになぜ生きるのか」「自分も決して特別ではない」「では、残りの人生、自分はどう生きるべきか」などなど様々な思いが、突きつけられ交錯した。
さて、当たり前だが、何故我々は、不安になるかというと、経験者による死後に関する答えやガイドがないからである。逆にいえば何でもありともいえる。
例えば、石原慎太郎は、死について以下のように語っていた。
「意識が消滅するのですから、死ねば虚無です。人間が喜んだり愛したり恐れたり怒ったりするのは全部、意識の産物です。意識がなくなってしまったら、自分がどこにいるのかさえもわからない。死んだら何もないのです。だから私は、こういう言葉をつくりました。「虚無は実在する」(プレジデント誌インタビュー記事より)
一方で、同じく石原氏同様、昨年亡くなった名経営者の稲盛和夫氏は、引用は少し長いが、著書「生き方」の中で次のように述べている。ある意味石原氏とは対極的な考えとも言える。
「私たちは心の中心部に「真我」をもち、その周囲に「魂」をまとい、さらに魂の外側を本能が覆った状態でこの世に生まれてきます。たとえば、生まれたての赤ん坊でも、おなかがすけば母乳を欲しがりますが、これは心の一番外側に位置する、本能のなせる業です。
そして成長するにつれて、その本能の外側に感性を形成し、さらに知性を備えるようになっていきます。つまり人間が生まれ、成長していく過程で、心は中心から外側に向かってだんだん重層的になっていくわけです。反対に、年をとって老いが進むにつれて、外側からだんだんと「はがれていく」ことになります。
たとえば痴呆が進むと、まず知識や論理的な推論など知性の働きが衰え、子どものように感情がむき出しになりますが、やがてその感情や感性も鈍くなり、本能がむき出しになる状態を経て、ついにはその本能(生命力)も薄れて、しだいに死に近づくことになるわけです。
ここで肝心なのは、心の中心部をなす「真我」と「魂」です。この二つはどう違うのか。真我はヨガなどでもいわれていますが、文字どおり中核をなす心の芯、真の意識のことです。仏教でいう「智慧」のことで、ここに至る、つまり悟りを開くと、宇宙を貫くすべての真理がわかる。仏や神の思いの投影、宇宙の意志のあらわれといってもよいものです。
真我は仏性そのものであるがゆえにきわめて美しいものです。それは愛と誠と調和に満ち、真・善・美を兼ね備えた、すばらしい真我があるからにほかなりません。あらかじめ心の中に備えられているものであるから、私たちはそれを求めてやまないのです。」
つまり、稲盛氏の語るこの「真我」は、消滅しない永久不滅であるということで輪廻転生するということだと思う。
勿論、死や人間の存在の意味など、(現時点では)結局誰も判らないから、宗教や哲学が生まれ発展する。だから、説得力やカリスマ性のある宗教家、あるいはそれを信じる多数派の人々がいれば、なおさら人がそれに縋りたくなるのも良く理解できる。葬式や法要等を一定のルールで行うのも、儀式として、何か不確実・不安なものを意味付け確定させたいという願いもあるように思える。
また、考えてもどうせ解らないことだから、考えずに今をただそれなりに一生懸命生きるというのも一方策であろう。筆者もどちらかというとそのような考えであった。ただ、加齢とともに、また経験や周りの人々の死に接することで、もう少し死生や存在について、考えてみようという気になっている。いや、考えなくてはならないという境地かもしれない。
例えば、最近の量子力学や現代宇宙論などは、かなり存在の本質に迫っているのでないかという気もしている。また、仏教と量子論の奇妙な一致点も多くの人が指摘していることでもある。ひょっとして、「悟り」とは存在や意識を数学的・科学的に証明できることなのかもしれない。石原氏の言う「虚無」も絶対的な虚無ではなく、ダークエネルギーやダークマターと繋がってるのかもしれない。
今後のブログで、機会あれば、こういったことも、分らないなりに多少掘り下げたり考察していきたい。